いま、海にいるよ。
送ったのはたった一言。それだけでも私が何を考えてそこに立ってるのか、彼には手に取るように分かるのだろう。
彼、七海龍水と初めて出会った海。私たちの間では合言葉のようなものだった。
「……思ったより早い」
「舐めるなよ。当たるぜ船乗りの勘は」
それ、たぶん船乗りとか関係ないと思うけど。細かいことは言わないし、考えないでおこう。
通話を切ってすぐ近くの船着き場へと向かう。
「てか本当に船で来るって何事?」
クルーザーと言うのだろうか。金持ちが趣味で持ってるみたいな船なんて初めて乗るので、どうしたら良いのかもよく分からない。
「洋上なら邪魔も入らん。名前が俺を呼ぶというのは、そういうことだろう?」
「そう……そうだね……」
夕焼けに染まっていく水面を眺めながら、イスに背を預けた。
たまにあるのだ。もう人間でいるのがめんどくさいなって瞬間が。特に誰かに何かをしてしまったわけでもされたわけでもないけれど。ただ張りつめていた糸がぷつんと切れるように、蝋燭の灯りがふと消えるように、この世界から消えてなくなってしまいたい。
そんな衝動に身も心も支配されそうになった時に必ず浮かぶのが龍水の顔だった。
「凄いねこの船」
お小遣いで買ったわけでもあるまい。私が一ヶ月で稼ぐ額の何倍かだなんて想像もしたくないが、目が眩むほどゼロが並んでるんだろう。
そういう、住む世界の違う人間にどうして私が……というのは随分と前に考えるのをやめた。
何故だか気に入られている。ただの気紛れかもしれないけど。
「気に入ったか?この船も悪くはないだろう」
私には一生かかったって手に入らないものまで思いのままにしておきながら、龍水にはまだまだ欲しいものがあるらしい。
未来を見据える彼の瞳は、いつだって瑞々しい生命の輝きを湛えている。
「うん。ねえ龍水、私、今日ずっと龍水の顔が見たいって思ってた」
人間なんて、生きるなんて、めんどうなだけだ。
だけど龍水はそうじゃない。絶望しそうになった時、私を幾度となく踏みとどまらせてきたのが彼の存在だった。
思うがままに生きる彼の横顔がいつだって眩しかった。龍水は、なんの目的もなくただ漂い続ける私の太陽そのものだ。
こんな重たい気持ちを彼にそのまま伝えるつもりはない。だけど龍水は、顔が見たかったと言われたことに対して「そうか」と笑ってくれた。
「泡になる前に俺を呼んだことは褒めてやる」
「そんなふうに思ってたの?」
「いつもそう思ってる」
泡だなんておとぎ話みたいな言い方をするものだから、面食らってしまった。
でも龍水だって何も考えないわけがない。呼び出される度に暗い顔をした女が立っているのでは、さすがの彼でも気が滅入ってくる頃かもしれないのに。
龍水に在るべき人の姿を勝手に押し付けておきながら、私自身が彼を翳らせてしまう可能性なんてまるで考えもしなかった。
「龍水はさ、たとえ私が泡になったって溶けた海ごと手に入れるような人でしょ」
そう思っていた。思いたかった。私がどんな姿になっても、龍水は共に連れて行ってくれると。
「無論だ。俺はこの世界の全てが欲しい」
減速していく船が波に押されて揺れる。
「名前」
普段の龍水からは想像もつかないような静かな声で名前を呼ばれる。それでも、私の好きな彼の目の輝きも、その意思の強さが現れたような眉も、何一つ変わってなんかいなかった。
「……だから俺は今から貴様を拐うが、良いか」
「いっ、今更なんてこと聞くの、君は」
「本当に溶けられては困る」
何かを欲する気持ちが湧いてくるのは、それがとても魅力的だからに他ならない。世界の全てを欲しいと願う龍水が生きる世界ならば、私もしがみついていられる。
「……溶けないよ。龍水がいるから」
「よし、良い返事だ。……ならばもう誰も俺たちを止めることなどできん!違うか?」
首を横に振る私を見て、どうやら満足したらしい。龍水が再び舵を切ると、船は陸へと向かい始めた。
「ところで私はどこに連れてかれるの?」
「まずは戻って腹ごしらえだ。休んだら夜明け前にまた出るぞ」
腹ごしらえする場所も休む場所も、恐らく既に手配済みなんだろう。何度か顔を合わせたことのある、彼の執事を思い出した。
そこまでしておきながら敢えて私に問い、答えを待ってくれる人。私の理想としてあり続けようとしてくれる人。龍水と見る朝日は、きっと世界で一番美しいに違いない。
2021.6.6 『ワルキューレの非行』
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